在宅死を選択するために【介護のゴカイ 31】

在宅死とは何か:現状と課題
「在宅死」ということばを聞いたことがあるだろうか?
病院で最期のときを迎える病院死に対して、「住み慣れた自宅、子供や親族の家で死を迎えること」を在宅死という。
厚生労働省が2017年末に実施した「人生の最終段階における医療に関する意識調査」では、この問いに対し、回答者の69.2%が「自宅」と回答し、大半の人が「在宅死」を望んでいることが明らかになっている。
確かに病院でいろいろな制約を受け、点滴などにつながれた状態で最期を迎えるより、住み慣れた家で、見知った顔に囲まれながら、いろいろな自由も許される中で死んでいきたいというのは素直な感情だろう。
厚労省も医政局に指導課在宅医療推進室を設置しているし、在宅医療・介護推進プロジェクトチームというのを作り、平成24年くらいから在宅医療・介護を推進するための予算もつけている。超高齢社会で増大する医療費の削減も視野に入れ、2038年までに在宅死率40%を目指し、「地域包括支援システム」の構築を進めているとのことだ。
ただ、現実には2020年の段階で、在宅死の割合は15%にとどまっている。
在宅死を阻む要因:訪問診療医の不足と「なんちゃって在宅診療」
在宅死を難しくしているのは、私の診るところ、それをきちんとサポートできる訪問診療医が圧倒的に足りないということがあるだろう。
何の病気もなく、ピンピンコロリで在宅死をする人はそう多くない。
何かしらの病気があっても、病院に通院しなくても、訪問診療をしてくれる医者がいれば、在宅死がうまくいく可能性は高くなる。
ちなみに往診というのは、何か具合が悪くなった時に、臨時でその患者さんの家にきてくれる医療のことを指す。これに対して、訪問診療とか在宅診療というのは、主治医として、かかりつけ医として、ずっとその患者さんの家を訪問する医療のことを指すと考えられている。
実は、訪問診療の名医、山中光茂先生とお会いしたことがある。
彼は、文藝春秋誌などで、「なんちゃって在宅診療」の問題点を追及している。
実際、在宅診療とか訪問診療というと、身体が不自由になった患者さんのために家に来てくれるだけで、在宅診療をやってくれるいい医者だと思う人も多いだろう。
確かに家に来てくれるのがありがたい人もいるだろうが、それが目的になってしまうと、それをビジネスとして考える人の餌食になってしまうというのが山中先生の主張だ。
実際、訪問診療を頼むと、沖縄のコールセンターで電話を受け、そこからその会社に登録した、たまたまその時間、空いているバイトのような医者が派遣されることは珍しくないとのことだ。
この場合、次に往診とか訪問診療に来てくれる医者は別の医師になることが当たり前のように起こる。
現在、厚労省の方針で往診や訪問診療に対して、比較的高い診療報酬をはらうようにしているので、営利目的で在宅診療を行う人が後を絶たない。
真の在宅診療とは:患者の人生に寄り添う医療
山中先生に言わせると、在宅診療というのは、その人の生活や人生にまでかかわるから在宅診療なのだとのことだ。
ただ、単に患者さんが病院に行く手間を省くだけのものではないということだ。
生活や人生にかかわるということは、死を看取ることも視野に入れたものでないと在宅診療医と名乗るべきでないということにもなる。
もちろん、ある時期まで訪問診療や訪問看護に頼り、介護が限界になったら病院や施設に入って、そこで最期を迎えることを私は否定するつもりはない。
しかし、できれば病院に移りたくないという希望が本人や家族にあるのであれば、その訪問診療医は最期を看取るつもりで、訪問診療を続けないといけない。
その医者は、その患者さんの人生にかかわる覚悟がないといけないし、その患者さんを熟知した人でないと、看取られる側も安心して死ねないだろう。
ということで、山中先生は、当初は一人で、24時間、呼ばれたらいつでも行くという体制で、患者さんと関わり続けたそうだ。
今は、さすがに体力がもたないということもあって、何人かで分業するようにしているそうだが、少なくとも、その医者はバイトでなく、常勤であることが条件だし、たとえば、一人の患者さんを3人で受け持つことになったら、いつも3人の中の誰かが来ることになるので、患者さんも家族も、知っている先生が診てくれることになる。
そういう形で亡くなるまで、在宅診療を続けるのが本当の在宅診療というわけだ。
確かに、在宅介護を長年続けて、その患者さんの具合が悪くなるたびに、訪問診療医がくるという場合、その医者が患者さんのことがよくわかっていないアルバイト的な医者であれば、家族の方針を無視した延命第一の治療を行って、結果的に病院にいれるという選択をすることだってあり得る。
あるいは、このまま在宅介護を続けていくことに不安を覚えて、結局、病院に入れようと家族が決めてしまうこともあるだろう。
私も長年の老年医療の経験から在宅介護がけっして簡単なものではないし、介護疲れで介護する側の人たちが身体を壊してしまったり、介護のストレスでうつ状態等になってしまうことが珍しくないことも熟知しているつもりだ。
こういう際に、ちょっとくらいのヘルプのつもりで、訪問看護師や訪問診療の医者がきても、あまり楽にならないことは多い。
ただ、訪問診療医が患者さんのことを熟知していて、「このまま、少し寝てもらっていれば大丈夫ですよ」とか、「急変することはまずなさそうなので、ご家族の方は少し休まれて大丈夫です」みたいなことを言ってもらえれば、介護する家族の安心感はやはり違う。
ついでにいうと、山中先生のようによくできた在宅診療の医師なら家族の心理面のサポートも行ってくれるようだ。
実際、訪問診療医、在宅診療医というのは、ある程度の精神医学、とくに精神療法(ことばによる心のケア)の心得も必要になってくると私は考える。
というのは、死にゆく人の中にはうつ状態のようになる人は珍しくないし、家族のほうもうつ状態になったり、心理支援が必要だったりするからだ。
山中先生のすごいところは、その対策として、定期的に精神科医を招いて勉強会を開いていることもある。
このように家族と徹底的につきあい、心理的なサポートもしてくれるような訪問診療医でないと、在宅で亡くなるまでの介護というのはかなり難しいような気がする。
在宅介護と在宅看取りの混同を避けるべき
がんのように意識もはっきりしていて、体調がだんだん衰えていくような病気であれば、家族の物理的な負担や心理的な負担はそんなに重くはないだろう(それだってつらい人はたくさんいる)。
しかし、脳梗塞の後遺症などで歩行が困難になっていたり、認知症が徐々に進んでいるなどという人を長期間在宅介護をするというのは、患者家族のさまざまな負担は重いものだ。
介護する側が介護うつのようになったり、身体を壊すなどが原因で共倒れは珍しい話ではない。
ということで以前から私は在宅介護と在宅看取りを混同してはいけないと主張している。
在宅看取りというのは、がんのように死期がある程度はっきりして、意識もしっかりしていてコミュニケーションが取れるような場合の看取りをその人の住み慣れた家でやろうというものだ。この場合、最期の時期に思い出も残るし、家族の側の疲労もそれほど強くないということで、私も可能なら在宅看取りをお勧めしたいし、自分も可能なら受けたいと思う。
いっぽうで、在宅介護を亡くなるまでやるという場合、終わりは見えないし、まただんだんボケてきたり、寝たきりでコミュニケーションも困難になったりするため、介護がだんだんつらくなってくることが珍しくない。
ひどい場合には、うつ病になってしまうし、介護自殺とか介護心中というのも毎年数十件の単位で起こっている。
そこで、私は介護に関しては在宅でなければならないというある種の思い込みを捨て、施設に入れることをためらってはいけないというアドバイスを臨床場面ではすることが多い。
ただ、定義上、「在宅死」とは、住み慣れた自宅や終の棲家と決めた高齢者用住宅などで看取られるということになっている。
老人ホームでの死も在宅死にカウントされるということなので、施設に入っても在宅死は可能なのだ。
在宅死をさせてあげたいから、最期まで自宅でがんばらなければいけないと思う必要はないのだ。
在宅死の実現には「キーマン」の育成が不可欠
在宅死を願うにせよ、最期は病院でなく見慣れたスタッフが看取ってくれる老人ホームで迎えるにせよ、山中先生の話を聞くとキーマンは、やはり在宅診療医なのだろう。
この人が(あるいは、このチームが)しっかりしていて、死を迎える患者さんや看取る側の家族の支えになっていれば、それが可能なのだろう。
このような医者を養成するのは急務なのに、専門分化、臓器別診療の利権を手放さない大学医学部に忖度して(おそらく、大学医学部教授に天下りができるからだろう)、いつまでたっても医学教育改革をやろうとしない厚生労働省と文部科学省には、ちゃんとした人間に大臣になってもらって、変わってもらわないわけにはいかないだろう。
今年は参議院選挙の年なので、医療がぜひ争点になってほしい。
著者
和田 秀樹(わだ ひでき)
国際医療福祉大学特任教授、川崎幸病院顧問、一橋大学・東京医科歯科大学非常勤講師、和田秀樹こころと体のクリニック院長。
1960年大阪市生まれ。1985年東京大学医学部卒業。東京大学医学部附属病院精神神経科、老人科、神経内科にて研修、国立水戸病院神経内科および救命救急センターレジデント、東京大学医学部附属病院精神神経科助手、米国カール・メニンガー精神医学校国際フェロー、高齢者専門の総合病院である浴風会病院の精神科医師を歴任。
著書に「80歳の壁(幻冬舎新書)」、「70歳が老化の分かれ道(詩想社新書)」、「うまく老いる 楽しげに90歳の壁を乗り越えるコツ(講談社+α新書)(樋口恵子共著)」、「65歳からおとずれる 老人性うつの壁(毎日が発見)」など多数。
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