老害について考える【カイゴのゴカイ 32】

フジテレビ問題に見る高齢者経営者の議論
フジテレビ問題が予想以上に長引いている。最終報告書は出たが、その内容がひどいものであったことと、経営陣が刷新されても不十分ということで「モノ言う株主」が更なる刷新を求め、対立が続いているということも大きいだろう。
ここで話題になったのが、日枝さんという経営トップが高齢だということだ。有名な社会学者がテレビで「87歳の方がフジサンケイグループの代表…ちょっと異常だと思う」と発言し、高齢者が経営トップであることが異常のように論じられた。
ウォーレン・バフェット氏の事例との比較
一方で、それとほぼ同時期に、94歳のウォーレン・バフェット氏が日本の商社株を買い増す意欲を示す「株主への手紙」を公表して話題になっていた。その3日前には、彼が率いる投資会社の保有現金が3000億ドルを超えたことも話題になった。
つまり、この人はバフェット氏のことも、90代になっても活躍を続けたピーター・ドラッカー氏のことも知らないで社会学者をやっているということになる。こんな低レベルの学者と称する人間を平気で出演させ、その後も使い続けるテレビ局にも大きな問題があるわけだが、明らかな年齢差別なのに、ほとんどの人がそれに気づいていないことに大きな問題があると私は考える。
年齢差別とアメリカの法規制
ちなみに、アメリカには年齢差別禁止法というのがあるからこの手の発言は原則的に公にできない。ヘイトスピーチと同じ扱いを受けるのだ。
アメリカの投資ファンドが日枝氏に辞任要求をした際も、独裁者が40年近くも支配していることを問題視しているが、年齢のことには触れていない。彼らの文化や法では年齢について触れることはできないからだ。これは「女が経営しているからだ」というのと同様の差別とみなされる。
「流動性知能」と「結晶性知能」による高齢者の能力評価
高齢者は知能が衰えると考えられがちですが、それに対する反論はある。
1960年代に心理学者のジョン・L・ホーンとその師にあたるレイモンド・キャッテルが提唱した概念に「流動性知能」と「結晶性知能」というものがある。
流動性知能とは新しい環境に適応するために、新しい情報を得て処理し、操作するための知能で、要するに、その場その場の状況に対応したり、パズルの問題を解いたりするときに用いられる知能のことだ。
一方、結晶性知能のほうは個人が長年にわたって、経験や学習などを通じて獲得していく知能で、言語能力や理解力、洞察力などはこちらに含まれる。いわば知恵と呼ばれるものだ。
ホーンとキャッテルによれば、流動性知能は10代後半から20代前半にピークを迎えたのちは、低下の一途をたどるのだが、反対に結晶性知能は、流動性知能がピークを迎えてからも上昇し続け、高齢になってからも安定していて、さらに伸びることもあるとされている。このように歳をとることで知恵と言われるものは伸び続けることさえあるのだ。だからバフェット氏は94歳になっても、投資の世界で活躍を続けることができるのだろう。
日枝氏の問題の本質と「老害」論への反論
日枝氏の問題は年齢の問題ではなく、長期独裁や彼のパーソナリティの問題なのだと考えるほうがはるかに妥当だろう。
このような独裁的な企業経営についても、今は「老害」と呼ばれることが多いが、日枝氏にしても、あるいは先ごろ亡くなった、読売新聞の独裁者とされる人も、歳をとってから独裁的になったわけではない。私が聞く限り、もともとそういう人だったということだ。
確かに長く経営をやっていると独裁がしやすくなるし、それが許される文化ができやすいという側面もあるだろうが、私には、それが年齢による脳の劣化によるものとは思えない。
元のパーソナリティによる問題を、歳のせいにして、医学的、生理学的根拠もないのに、「老害」と決めつけるマスメディアの対応は私には許せない。というのは、高齢者がこれだけ増え、高齢者が昔より若返っているのだから(たとえば、世を騒がせた中居氏にしても1950年代の磯野波平氏と同い年だそうだ)、高齢者に生産の面でも消費の面でも社会参加してもらわないとこの国はもたないからだ。
つまり、高齢者を老害扱いして、社会から排除することは現在の日本の実情に合わない。
高齢者の社会参加と老化予防
それ以上に、私の高齢者医学などの経験から、高齢者には今できることを続けてもらったほうが老化が遅れると信じていることがある。
高齢になると使わなかったときの衰え方が激しい。歩かないと歩けなくなるし、脳を使わないとボケたようになる。逆に使い続けていると意外に衰えない。
ここに、なんでも歳のせいにして、高齢者からできること(たとえば運転)を取り上げることの危険があるのだ。だから、マスメディアが何を言おうと、高齢だから「~~をしてはいけない」と思い込む必要はないし、そのためにいろいろなことはやめるべきでない。
企業経営や日常の仕事でやってはいけないことをやってはいけないのは、若い人も高齢者も同じことだ。高齢者の場合、やっていけないことをやるとすぐ老害と言われ、高齢のせいにされるが、これは道徳観の問題であって、年齢の問題でない。
高齢者の場合、そうならないように気をつけながら、これまでやってきたことは続けるのが老化予防の極意というものだ。逆に、高齢者ができなくなったとあきらめたり、老害を恐れて遠慮して不活発になると、要介護や認知症になるリスクははるかに高まる。
高齢者の能力再評価と共生社会の提言
さて、老害ということでなくても、高齢者の能力が不当に低く評価され、高齢者にはできないと決めつけられることもある。
前述のように、確かに高齢者は反応が遅くなったり、動体視力が衰えたりするため、運転が下手になるのは確かだろう。ただ、それが事故に直結するかということには大きな疑問がある。
実際、多くの高齢者はそのような能力低下は自覚しているようで、若い頃よりゆっくり走ることが通常だ。私も日常的に運転するのだが、高齢者マークをつけた自動車は速度が遅いためイライラすることが多い。
車庫にぶつけることと、人をはねることとは別問題なのだという理解はほとんどない。人をはねることは、車両感覚が悪くなることとはほとんど無関係の話だからだ。
実際、高齢者には衰える能力もあれば、前述の知恵のように保たれる能力や若い時以上の能力を発揮するものもある。
高齢者と現役世代の共生を考えるならば、高齢者の保たれた能力をなるべく利用し(先人の知恵を尊重するような形で)、できなくなったことは周囲の援助を受けたり、テクノロジーの力を借りるというのが妥当な方向性だろう。
だから、できることで思いきり力を発揮し、できないことは無理をする必要がない。
自分のほうができると思って立候補することは悪いことではない。
もちろん、思ったよりできなくて迷惑をかけることもあるだろうが、謝れば済む話だ。ただ、自分のほうが経験があるとか、年長であるからと言って、周囲の意見を受け付けないとしたら、それが老害なのだろう。
私の見るところ、高齢者の多くはとても謙虚で、家庭の中で老害のような人はいないでもないが、だいたい老害と言われるのを恐れて、世間の言いなりになる人が多い。
「老害恐怖」からの脱却と社会貢献の勧め
自動車の運転免許返納にしても、本当は返したくない人が周囲の圧力で返すことが多いし、コロナ自粛の際も、感染して迷惑をかけてはいけないと外に出ない人が多かった。こういう老害恐怖のような行動は、結果的に自分の足腰などを弱らせ、要介護状態につながってしまう。
結果的によけいに周囲に迷惑をかけてしまうのだ。
それよりは、自分がどんな能力がまだ残っているか、どういう点では若いものに負けないのかの再評価を行うべきだ。
自分が世間で役に立てる分野では役に立ったほうが、自分の老化予防にもなるし、世間にも感謝される。
今は空前の人手不足なのだから、それをやることで役に立てることはいくらでもある。
まだ運転ができると思ったら、タクシーでも宅配便でもドライバーをすることで多くの人が助かる。
高齢者の運転は危ないなどというマスコミが作った、統計学的根拠も何もない嘘に遠慮することはない。
ほかにも介護の現場など、人手不足のところで高齢者が役に立てるものはいくらでもある。
老害だと批判されたら、自分の態度が悪かったと素直に反省すればいいが、言われる前から、小さくなっている必要はない。
高齢であるから、高学歴の人であっても、世間体を気にせず、老化予防なのだといっていろいろなことができるのだ。
老害と言われるのを恐れず、アクティブに生きてほしい。
著者
和田 秀樹(わだ ひでき)
国際医療福祉大学特任教授、川崎幸病院顧問、一橋大学・東京医科歯科大学非常勤講師、和田秀樹こころと体のクリニック院長。
1960年大阪市生まれ。1985年東京大学医学部卒業。東京大学医学部附属病院精神神経科、老人科、神経内科にて研修、国立水戸病院神経内科および救命救急センターレジデント、東京大学医学部附属病院精神神経科助手、米国カール・メニンガー精神医学校国際フェロー、高齢者専門の総合病院である浴風会病院の精神科医師を歴任。
著書に「80歳の壁(幻冬舎新書)」、「70歳が老化の分かれ道(詩想社新書)」、「うまく老いる 楽しげに90歳の壁を乗り越えるコツ(講談社+α新書)(樋口恵子共著)」、「65歳からおとずれる 老人性うつの壁(毎日が発見)」など多数。
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